Tida-Tiger

好きなものだけ好きなだけ。

Dear ALUCARDNIA.

†ネタバレ注意†
†個人的な考察につき、注意†
†解釈違いなどありましても、スルーで†

 (2014/11/21に旧ブログにて書いた物を、2015/05/19に加筆修正)

 

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†THE ALUCARD SHOW ―虚構と現実をつなぐギミック― †

THE ALUCARD SHOW
この作品の冒頭で、案内役である老婆は、観客に語りかけます。
【過去、彗星のごとく現れ、去った、ALUCARDというグループがあった】こと。
【劇場にいる観客は、そのグループを熱狂的に支持したアルカドニア】であること。
アルカドニアはこれから、【彼らの過去を、共に振り返り】…【ALUCARDと再会】する。
そうして、舞台の幕が開けます。

初めてこの作品を見た時点では、観客にとってその言葉は、そういう設定なんだ。という感覚でしかありません。とりあえず飲み込むか、適当に脇に置いて、物語を見るだけです。


物語の中で、狂言回し的な一般人キャラクターとして、サラという女性が登場します。彼女はブラドと出会い、彼の瞳に魅入られ、アルカドニアという、ALUCARDの熱狂的なファンとなります。

比較的多くの(群像劇等はまた別の構造)作品では、観客に近い設定の人間が、物語の主観を担い、作品世界を体験していきます。観客はそのキャラクターに同調し(あるいは判断の基準にして)作品世界を見ることで、自分にとっては虚構である作品世界を疑似体験するのです。

THE ALUCARD SHOWでは、サラがその主観キャラクターを担っていると、私は感じました。彼女が作品世界の中で体験した事、そして描いた心情の軌跡を、観客が共有する……つまり、サラの目を通して、アルカドニアとして物語を体験するのです。

こういった、主観キャラクターを通して作品世界を体験するというのは、ありふれた構造です。しかし、「サラの目を通して、アルカドニアとして物語を体験する」のは、キャラクターを一般的な人間に設定するという鉄板設定以上に、同調しやすい構造を持っていました。

初演THE ALUCARD SHOWの観客には、キャストファンや、ゴシック的作品を愛好する人、ダンス・パフォーマンスを好む…という方が、一定数いました。つまり、元々、サラと好意のベクトルが同じ方向である方がいた。その状態でサラと同調することにより、もとの好意を、アルカドニアとしてのALUCARDへの好意と錯覚させ、倍増させる効果があったのではないか、と、私は思うのです。

個人的な話になりますが、初演当時、私は舞台弱虫ペダルのTFR(インハイ一日目)公演を直前に控え、尋常じゃないほどわくわくしていました。大好きな村井さんに会える! しかも特に好きな坂道君役で!! と気持ちが沸き立っていたのです。

そのタイミングでTHE ALUCARD SHOWを見てしまった為、まんまとサラと同調し、見事、アルカドニアとなりました。

ALUCARDを演じるキャストのファンの方はもとより、「何かを熱狂的に愛した」経験のある方にも、恐らくこの構造はよく効いたのではないでしょうか。

サラ以外のキャラクター、マリア・ウォルターも、それぞれの強い感情を、ALUCARDへと向けています。サラに同調するタイプ以外の方も、彼らの感情のベクトルを、滑り台のように降りていき、ALUCARDへの興味を抱くように作られていると感じました。


この舞台には幕間・休憩が存在しません。
しかし舞台の途中で、幕が下り、休憩アナウンスが入り、客電が灯ります。幕にも、休憩終了時刻へのカウントダウンが投影される。初見の人で、またホール入り口近くにある上演時間なども目にしない方のいくらかは、このアナウンスに騙されます。
少し気を抜き、のびをして、トイレか物販でも覗こうか……と腰を浮かしたところで、老淑女(マリア)が幕を開いて現れ、休憩など無い、ALUCARDから逃げることなど出来ない、と宣言します。
この「観客を現実世界に戻し」、油断した瞬間に「作品世界へ引き戻す」という一連の流れもまた、現実と虚構を繋ぐギミックを構成していると、私は感じました。
舞台を見るのだ、と構えるのをやめた瞬間に、作品世界へ一気に引き戻す。休憩だと油断していた人にとって、それを否定し笑うマリアの言葉は、直に響くでしょう。まっさらな紙に、黒点を描くことで、視線をそこに集中させるのと、同じ効果もあると思います。

あともう一つ、この偽休憩について、面白いと感じた事があります。この偽休憩は、一度以上舞台を見ている人には、通用しないのです。ここで、「初見であり、偽の休憩に引っかかる人」と、「既に見ていて、展開を理解している人」という差が出来ます。前者は単純に学習しますが、後者は、自分は前者ではないのだ、という、自意識の輪郭を知ります。選民意識よりはゆるやかで、しかし明確な、他者との差異と若干の優越を、自分の中に感じるのです。
自分自身を、アルカドニアであると自称しているタイプの人であれば、余計にその「アルカドニアとしての自分」という自意識を感じるタイミングになるのではないでしょうか。逆に偽休憩に引っかかった人を演じるタイプの人も、他者(初見の人)と行動を似せることで、余計にその知識や意識の差異を際立ている感じがします。

 

本編が終わり、過去を追想した後、舞台は再度、観客というアルカドニア達に語りかける構成に戻ります。これまで描いてきた過去を踏まえて、ようやく、本当に、ALUCARDに会えるのです。ALUCARDに選ばれ、永遠を与えられたアルカドニア、最も飢えたる狂信者サラ・ウォルター・マリアは、彼らの再臨に目を輝かせます。

そして、物語を体験してきた観客達も、その姿をじっと見つめるのです。


舞台は、そこで終わります。
しかし、アルカドニアとなった観客達の物語は、人生は、終わらない。

一度幕が下りることで失われたALUCARDの影を、生きたアルカドニア達は追い求め続ける。
初演では、かなりの枚数のチケットが追加で購入されたそうです。かく言う私も、かなり終盤に見に行った後、3回増やしました。


私や、他のアルカドニア達は、再演を熱望し続けました。
ALUCARDに会いたい、彼らのパフォーマンスを見たい。

 

それと同時に、私の中には「再演を行なってこそ物語が完成する」、という感覚がありました。

アルカドニアは飢えなければならない。
ALUCARDが失われた世界で漂泊し、彼らの再臨を待ち望まなければならない。
その飢えをもって、ブラドの杯は満たされ、物語は完成する。


再演。
アルカドニア達は、作品の冒頭で、案内役である老婆の言葉に頷くのです。
【過去、彗星のごとく現れ、去った、ALUCARDというグループがあった】こと。
【劇場にいる観客は、そのグループを熱狂的に支持したアルカドニア】であること。
アルカドニアはこれから、【ALUCARDと再会】し、【彼らの過去を、共に振り返る】…。
設定でしかなかったそれが、私たちの元で真実となり、過去を辿り、再臨を喜ぶ。

「Hello!! 親愛なる、そして最悪なるアルカドニア!」
ブラドの言葉は、アルカドニアの心を、どれだけ揺さぶるのでしょうか。

そうしてようやく、虚構が現実と交わり、THE ALUCARD SHOWという物語は、完成するのです。

演出の河原さんも、ブログの中でこう語っています。

ご覧いただけた方は百も承知だと思いますが、ツンデレアルカードにアンコールは絶対に似合わないわけで、千秋楽のアレは僕の中でもアンコールという類いではございません。

フィクションと現実が融合し、それが結実した瞬間を確信的に作るためのアルカード的ドS儀式とでも言いましょうか。

劇中にもありますが、アルカードに取り憑かれた人達は、彼らを求めれば求めるほどその血がどんどん美味しくなるわけで。

 

※余談
初演の公演期間の長さや、アフタートークなどイベントの配置的に、そのアルカドニアの飢えは、その初演の期間の中で熟成され、再度見ることで、完結するものだったのではないか、と感じています。元々が、複数回観劇することを前提とした作品だったのではないでしょうか。

 

†ALUCARD⇔DRACULA 名前的な考察†


ALUCARDはDRACULA、吸血鬼ドラキュラの名を後ろから読んだ言葉です。
他のキャラクター達も、吸血鬼やそれに絡むフィクション、独特な伝説を持つ過去の人物から名前をとられています。
ブラド吸血鬼ドラキュラのモデル、ヴラド公より
オルロック吸血鬼ノスフェラトゥでの、ドラキュラ公役。権利関係によりオルロック公へ改名。
カーミラ=吸血鬼カーミラより。女性名。
ジルド=ジル・ド・レ。ジャンヌ・ダルクと共に戦うも、後に黒魔術に傾倒
サンジェルミ=サンジェルマン伯爵。高度な教養と不思議な伝説を持つ。
バット=Bat コウモリ。
ポプシー=Popsy スティーブン・キングの短編小説からか?


その他キャラクター
ウォルターヘルシング? と思ったけどわからない。
サラダンス・オブ・ヴァンパイアのヒロイン。吸血鬼である伯爵に誘われ、そちらの世界へ。
この中で、唯一特殊なのが、マリア
彼女は、ブラドをこの世界に、もっとも輝かしい瞬間に生み出すために選ばれた、スター。母たる海の星、聖母たるマリア。なのだろうと思います。


†ブラド という存在†

私は、ブラドのことを、『神』だと認識しています。
何かの宗教やその教義に依る神ではなく、それら全てを総括した全ての超越者としての神。それは十字架のモチーフだけでなく、吸血鬼の真祖としての性格も併せ持っていると思います。
また、偶像・idolとして、信仰、崇拝、愛情を一心に受けながら、ただ天にましまして燦然と輝く者とも思っています。
根本的には、サラの言う「天使だって悪魔だって、何だっていいじゃないか!」という感覚です。
作中の言葉を引用して説を展開するのであれば、以下の通りになります。

ブラドは、カーミラ達の上位に立つ者です。マリアのツアーのリハ中、カーミラ達はずっと誰かを待っているようだったと、ウォルターは証言しています。
またブラドは、マリアの「彼ら(ALUCARD)は一体何者なのか?」という質問に対して、「アルカードは(略)神様が遣わした呪いの使徒」と答えていました。
それを単純に(比喩などを入れずに)繋げると、ALUCARD達の上位にいるブラドは、神か、あるいはそれに類する超越的な存在であると考えることが出来ます。

マリアのツアー「Reborn」にて、ブラドは「Born」というタイトルの曲と共に、ALUCARDというダンスユニットをお披露目します。
マリアという大きなスターのツアー中に降臨することで、ブラドはより鮮烈なデビューを飾り、ショービジネスでのスターとして誕生することが出来ました。
マリアの名前、「Born」という曲のタイトルをあわせると、彼女とそのステージから産まれた存在が、聖母マリアから産まれ、現世に受肉したキリストと、同じ構図を持っているように思えます。

マリアやブラド自身が口にするブラドの立ち位置も、孤高を伺わせます。
サラからの「どうしてそんなに寂しい目を?」と言う質問に対して、ブラドは「天辺からの眺めというのはね」と答えます。ラストのショー前には、マリアは「あの方は遠い彼方の頂で~そうでしょう、ブラド!」と言いました。

マリアがALUCARDを退治した後。朝日を浴びても平然としているブラドに、マリアは「あなたは一体何なのか?」と問いかけました。
その後、ブラドは彼女に「ご褒美を上げよう」と言って、首筋に唇を落とします。その際、ブラドは、マリアの耳元で、誰にも聞こえない声で、あるいは唇だけで答えました。
読唇術に自信はありませんが…彼はおそらく、こうささやきました。
“I am a GOD.”

だからこそ私は、ブラドは神だと認識しているのです。*1

(2014/11/21)

(2015/05/19 追記)

*1:初演でも同様の唇の動きに見えました。しかし、再演DVDにて確認したところ、完全に上記の推察とは異なる唇の動きをしていました。ただ、実際に囁いているにしては、舌の動きが激しいので、収録日のみ、正解が分からないように変更した…のかもしれません。しかし、そう穿って考えてみても、他のデータが残されていない現在では、確認のしようが無い状態です