Tida-Tiger

好きなものだけ好きなだけ。

セッション

セッション、見てきました。

村井さんが、先日のビジュアルボーイズの日記で書かれていた感想を読んで興味を持ちました。何か創りたいと願っているなら、見た方がよさそうだと感じたので、早速映画館へ。村井さんの自分の感情を織り交ぜた主観性を持ちながら、捉え方は中立を保ちつつ、ネタバレに配慮して、細かな情報を織り込んだ、他者の作品に対する感想が滅茶苦茶好きで、見ると大体行きたくなってしまいます……。元々自分は、フォロワータイプというか、ストーカー気質の追っかけなので、見た物とか食べた物とか行った所の情報を出されただけで、それに追従してしまうのですが。

以下はちらほらとネタバレ含む感想。注意。

全編通して狂気的なストレスに満ちていて、最後の最後の演奏だけが、全てのカタルシスとなっていました。

マイルズ・テラー演じる、主人公のアンドリュー・ニーマン。映画冒頭では頬がふっくらとして、まだ瑞々しい少年のような印象。でもJ.K.シモンズ演じるフレッチャーのバンドに入り、言葉やレッスンで尊厳と矜持をズタボロにされ、それでも折れずに(或いは、折れることが出来ずに)過酷な自己訓練を積み、バンド内で成り上がる内に、頬は痩け、目は落ちくぼみ、瞳ばかりが爛々と輝いて、本当に「狂気」をはらんで見えました。フレッチャーは他害的で、頻繁に爆発して他を傷つけて回る狂気ですが、ニーマンは内省的で、怒りも悔しさも飲み込んで中で、仄暗く燃え上がる狂気。ニーマンの方が怖い。練習の中で流れていた血は、実際に役者さんが流したものらしく*1…この作品を描くために捧げられた、現実の造り手の狂気もまた、この作品を昇華させているように感じます。

じゃあニーマンは音楽に全てを捧げているかと言われると、微妙にそうではなく。他にどうしようもないから、この場所にいる、という部分もありました。年頃の男の子らしく、ちょっと気になる女の子がいたり、フレッチャーのバンドに呼ばれて、気分が高揚したままにその子に声をかけたりします。あと、従兄弟?がアメフトでいい評価を貰って、親戚にチヤホヤされているのに対して、自分だって凄いのにと鬱屈したり。そして、音楽に専念したいからと、彼女を突き放す。彼女を~の件は、女性の視点からするとマジで「何様のつもり?」ってなります。ニーマンから声をかけて来たくせに、大学でやりたいことがないと言うケイトを見下して、最後には音楽の邪魔しかしないからと別れを切り出す。彼女を信じようともしないし、支えてくれと言うだけの男気もない。見ていてものすごく腹が立ちます。でも多分、ニーマンにはそれしか考えがなかったんですよね。「俺くらいの歳になれば、色々な物が見えてくる」「そんなのはいらない、一つでいい」そんな会話をする父親とニーマン。「ドラムをする理由があるんだろう?」「ドラムをする理由がある」そんな会話をするフレッチャーとニーマン。カッコイイからとか、成功したいからとか、見返したいからとか、これしかないからとか、全部を内包して、彼には「ドラムをする理由がある」*2

心情的な構成が、本当にえげつないほど上手でした。梯子を上り、ほんの少しだけ見えた栄光に手を伸ばし……かけた瞬間に、足元の梯子が全部消える。しかも見えてたはずの、栄光や、それに照らし出された道筋も見えなくなる。でもそこから落ちる訳にも、その場所にいる訳にも行かず、疲れきった腕を叱咤して、心を燃え上がらせて、手探りで梯子をまた登っていかなくちゃいけない…そんな感じでした。しかも梯子が消える瞬間(比喩)なんて、殆ど、ほんのワンカットで表現されているんですが、確かにそれが転落の予兆であることがわかる。その度、私は震えていたし、他の誰かも、「あ」と小さな声をあげていました。本当に、「あ」で、全てが崩壊し、転落していく。それが何度もある。めっちゃ辛い。でもその気持ちの緩急が、音楽の流れとうまく合致して、端的な映像の中の、努力そして努力つまり努力!みたいな、ものすごく地味な描写も、目を離さずに見つめることができました。別にハッピーな展開はないです、ただ、手に入れるまで努力するだけ。

私は多分2,3度ほど泣きました。上記の瞬間が辛すぎてブワッて来たのと、あと一回は悔しくて。テンポがつかめず苦しむニーマンに、フレッチャーが「どんな気持ちだ?」「悔しいか」「口に出して言え、皆に聞こえるように!」と畳み掛けるシーンがあり、色々と感情移入して、悔しくて悔しくて泣きました。泣くのも弱い感じがしてなんだか嫌なんですけど、映画館では、悔しい!なんて言えないので、一番静かなストレス解消手段として選ばせてください…。フレッチャーにガンガン言われてるのも怖いし辛いのですが、やっぱりやりたいことが出来ないのが悔しくてたまらなくて。頭の中でガリッと石が打ち鳴らされるような、火花が散るような感覚。自分も作品を作る中で、そういう気持ちになったことがあるので、滅茶苦茶刺さりました。

だからこそラストのカタルシスが素晴らしくて…あの何かを創り上げることが出来た瞬間の、ゾクゾクした高揚が、実際の映画作品としての完成とその精度に裏打ちされているのが良いです。ここまで来てるので言うと、ラストは、演奏が終わって、そのまま終わりです。歓声や拍手もなく、賞も未来の確約もなく、ただ音楽が終わって終わる。でもそれでいいんです。この音楽が創り上げられた。ただそれだけで、ここまでの、血肉と魂を捧げた日々が報われる。

邦題(英語ですが)のセッションも嫌いじゃないです。ラストの、ニーマンの狂気を帯びた熱量がバンドメンバーだけでなくフレッチャーも飲み込んで、一つのセッションを創り上げているのは事実なので。でも、「この曲を演奏出来たこと」にカタルシスがあることを考えると、原題のWHIPLASHの方がしっくりくる気もしました。

*1:村井さんのびじぼ日記参照

*2:文字をそのまま覚えることが出来ないので、全てセリフは大体です