Tida-Tiger

好きなものだけ好きなだけ。

Tokyo Idolsとぼくの神様

Twitterで情報が流れてきていた“Tokyo Idols”Netflixで見ました。

ざっくりと内容をまとめると…

地下アイドル・柊木りおの仕事や生活を軸に、様々なアイドルの置かれている状況や批評家の意見を交錯させる事により、内部/外部からの視点で“アイドル”という存在に立体的に切り込んだ意欲作。

って言う感じでしょうか。引用にしてるけど自分で書いたので、どっかにあるだろう公式のあらすじとは異なります。

 

主演で、話の主軸になっているのは柊木りおちゃん!

この作品で初めて知ったのですが、凄い精力的で、夢に向かってガンガン走っていて…カワイイを超えてカッコいいアーティストさんでした!

作中で掛かっている曲。ヒャダインさん作。カワイイしテンアゲする感じ好きです。

 

作中で、りおちゃんのファン(ブラザーズ)としてよく出ているのはコウジさん。上記のあきばロマンスの動画はTokyo Idols版だと、コウジさんの名前が地味に入っています。終盤にりおちゃんを追いかけている黄色いシャツを着たブラザーズの、先頭画面左側の方です。

現場にいる立場から、その中での活動やファンとしての想いを包み隠さず伝えていて凄いです。

ブラザーズのアカウント。結構こまめに管理されていて凄い。

 

他に登場するアイドルは、

アプガ(仮)/握手会の様子

AKB/総選挙の様子

14歳・10歳のアイドル+母

など。

先二つは現場の様子を、ちいさいアイドルは当人や母親の気持ちを丹念に拾っていました。

 

監督さんは三宅響子さん。

Kyoko Miyake | bits LOUNGE(Tokyo Idolsについてと男女観などのインタビュー)

この方自身が、決してアイドル文化に対して完全に肯定的ではなく、あくまでも部外者としての視点をぶれずに持っている(と感じる)のと、一アイドルに密着し、マネジメントの一つとして公開される舞台裏ドキュメンタリーとは、制作意図自体が違うので、なかなか興味深い映像となっていました。

 

 

見た感想や、思った事を、ダラダラと書いていきます。

・一個人の意見です

・基本的に若手俳優ヲタ(というか推しヲタ)です

・女性からの視点です

・ドルヲタじゃないので実際の現場はあんま知りません

・いまいちまとまらない

・書いているウチに違う話になってる

上記ヨロです。

 

 

ヲタク・ウチソト

監督・批評家は、基本的にヲタクを肯定していない(むしろ否定的な)感じがしました。

まあ話の構成的にしょうがないかな。ヲタク撮って、ヲタクヨイショして……じゃあ、公平じゃないドキュメンタリーになるし。そんなにベタベタなのは内部のドキュメンタリーを見ればいい。

ヲタクに対しては、割と冷静に映していた印象。決してキモくは撮ってない。コウジさん達(りおちゃんのブラザーズ)が熱いので、画面としては熱いし圧迫感があるのですが。笑

ただ監督さんがヲタに質問をするときには、「少し違う」とか「そこに触っちゃうか」っていう言葉が出てくる。「それはいわゆるガチ恋とは違うの?」とか。うーん、いや、ね、そーなんだけどそーじゃなくて…うにうに。

でもだからこそ、ヲタ界隈のウチ側ではない、ソト側の視点が感じられる。ウチの熱さや様子を丹念に写し撮りながら、ソトからの視線に晒して、ある意味……普通の人が見た時にわかりやすくなるように、通訳がされている感じもありました。

 

批評家が嫌い

出てる批評家のうち2人は、コイツ嫌いだな~~~~ってなりました!笑

 

1人は女性、フェミの人(雑)。名前は自分で見て確認して下さい。

アイドルは男性から搾取される女性!男はお金を払えば、努力しなくても嫌われない場所に甘えてる!!みたいな論調。

人権運動家とか…なんかこういう運動してる人の方が「古い枠組み」に押し込めて物を見るのはなんだろうな。

 

もちろんその枠組みは依然としてあるし、それは壊していかなくちゃ行けない。現状その枠組みの中で生きる事を良しとしている人が、枠組みの存在自体を肯定してしまう状況のは事実だと思います。

今回のアイドルで言うと、男性に搾取される少女=アイドル自身が、その搾取構造の中で生きてしまう、みたいな。

 

でも……「いや! 別にその枠組みを肯定するためにアイドルしてるわけじゃないからね?!」という気分になってしまう。

 

きらきらした存在になりたい!だったり、カワイイが好きだったり、歌やダンスを披露する場としてだったり、お金が欲しかったり、そういう様々な理由で、皆、 アイドルを目指したり、実際にやっているわけで。

 

個々の意志を無視して古い枠組みに押し込めるってのは、なんか世の中に逆行してるし、自分が論を振り回すために、その視点を捨てられないのでは??みたいな気分になるんですね。こっち(消費者)が、「彼女(彼)らは搾取されてるわけではなくて、自ら望んでやってるんですよ」って言っちゃうことの薄ら寒さと同じ。そうじゃなくちゃ都合悪いもんね~っていう。

私自身としては、古い枠組みを全て壊さねばならない!アイドル死すべし!!じゃなくて、新しい視点や実際の人々の心情から、現在有るものを概念から解体・再構築していけないかな?って思うんですよね。それがものすごく難しいのは知っているけれど。

 

あと、嫌われないですむ状況に甘えてる~とかもね。モヤモヤしました。

中からの意見としては…本当に嫌われてないと思い込んで現場に行けてる人間がどれだけいると思ってんだ!!と。

いや、無神経であったりで、推しの気持ちがわからない人ももちろんいるんですけど! はてブロ界隈では、結構多くの若俳ヲタが、推しに嫌われていないかどうか胃を痛めて続けているのを見ているので。若俳ヲタは、自分が女で相手が男っていう部分によるものも多いかなとは思うんですけれど、じゃあ全部のドルヲタが「この女は俺を嫌わない」って思い込めてるかというとそうじゃないと思うし。

この辺割と、嫌悪の理由が入り組んでいるので、後々それぞれ分解していきます…多分。分解した結果しっちゃかめっちゃかになるかもしれない。ザックリ言うと「必ずつがいにならなきゃダメなの?」「金銭でやりとりされるモノと個人の自由意志の線引きって?」「主体性の再獲得の場としての現場でもあるんだけど?」みたいな。

 

後もう1人は男性で、アイドルのプロデューサーとかやってた人です。自己プロデュースするアイドルグループを標榜していたけど、実質解散音沙汰無し…みたいな。これも後の方で若干話してます。

 

ただ、嫌いなのはこの2人の批評家だけで。笑

この作品自体は、監督自身の冷静な眼差しの元に制作されているので、偏向的な部分がほとんどなく、落ち着いて見る事が出来ました。

 

残存する男性優位社会的価値観におけるアイドル像

男は女を買う。女は男に買われる事で価値を得る。

アイドルは、そういう価値観の中で誕生した。…かもしれない。

上の方でキエー!!って切れていますが、そういう価値観は存在しない!!とは言ってないです。実際あるしさ。女だからこそ肌に感じる部分がある。

 

アイドル成立について、古くまで話を戻すと、出雲阿国であったり、祇園における舞妓の成立と成長過程の後援とかそういうのから来ているのかな?とは思うし、その頃の男性優位の社会状況を考えると、その中で成立していた理由なんかもあると思うんですけど、そこまで考え始めると面倒くさいので!やめます!!

これは結構興味深かったです。アイドルという存在の構成の歴史的な流れが俯瞰できる感じで。ただ基本的に民俗学的見地から物語消費(あるいは原型の再共有と言って良いのかも)というものをベースに書いていて、割と無性的な論述なので、ジェンダー論にはあまり触れてないかな。

 

話を戻して。

男性優位社会的価値観におけるアイドル像。

家庭板まとめ*1系がわりと好きで、たまに彷徨って読んでいるんですけど、その中でもちょっと衝撃を受けたまとめがこちらで。スレ自体はVIPなのでアレですが。

 

アイドルアニメは幼気な子どもを釣るためのものであり、アイドルは芸能界という世界で男性に搾取されるだけの傀儡である。

そういう考え方と、それを肯定する人(否定する場合も、内容は正しいが言い方が悪いという人が多数)が沢山いるっていうこと。

 

もちろん、そういう側面はあるとは思うんですね。

本編中で「握手というのは日本では受け入れられてなかった。握手という身体的接触は性的な快感があり、それを握手会という形でアイドルとの接触に持ち込んだのは慧眼」みたいな話をしている批評家がいて、「マジかよ」ってなりました。

自分は…推しとのハイタッチ会とか、短い時間に何をどう話せるかが一番気をもむところなので、肌が接触するかどうかは割と付録程度でしたね…。

もちろん身体接触による好感度の上昇っていうのは現実にあるので(でも母子接触における好感度や安心の度合いの上昇とかもあるから、根本的には性的な快感がベースじゃないと思う)、それに意義がないとは言わないんですけど。男性から女性への接触だとまた違うだろうし。

 

あと1回書き上がった後にオタクカテゴリ見ていて読んだブログさん。

知られざる世界…本当に……接触が無法地帯なの怖い。

 

あと、ねほりんぱほりんの地下アイドル回の、手ブラチェキの話には戦慄しましたね。

 

じゃあこれが全てか?全部傀儡か??っていうと、まあ多分そうではない。

自分自身の意志でマネジメントの方向性を決めて、その上で売れて、アイドルをやっている子もいると思います。

ハロプロの子は、自分が小中学生の頃に活躍していた子と、推しと共演している子くらいしか把握していないのですが、引退のこともあってももち氏の事はなんとなく知っていて。きちんと自分自身で決定していくスタイルは本当に格好いいなと思っています。

 

「搾取される傀儡としてのアイドル」が「芸能界の真実」であるかどうかはさておき。

そういうモノだと認識している人は一定数いて、それが社会を形作っている事は事実で。そういうもんだという風に思って行動している人がいて。お前は搾取されるもんだよと高圧的にアイドルに接する場合もある。エロ本にそういう設定多いですよね!!!大体アイドル系のキャラクターはそういう目に遭う…エロ同人誌みたいに!っていうかエロ同人誌で!!でも現実でもそういう部分は絶対ある。

でも後に引用するエマ・ワトソンのスピーチにあるように、男性かくあるべしみたいな視点に男性自身も縛られてる部分もあるわけで。かといって本当に社会規範に縛られてるから、男性的に行動しているわけではなくて、本人が無神経で最低で不愉快な場合ももちろんある。

 

作中で、14歳と10歳のアイドルちゃんと、そのお母さんが出てきて。やっぱり言うんですよね「初めは不安でした。歳のいった男性が、娘を見ているのは…。でも、ファンの皆さんみんな優しくて」みたいなこと。

上記の価値観を持った男性が実際にいる事や、現場にいるファン達のありかた、あと踊りたい、歌いたい、アイドルになりたいってキラキラしている娘さんの気持ち、そういうのを考えると、お母さんってすごい複雑だろうなと思って。

 

……。

これに関しては特にオチがないです。

そういう価値観も実際にあるし、それに晒されている子達もいるし。それをどうにかする事は出来るのか?って考えたら、凄く…すごく、難しいなと思ってます。

 

お金を出して買えるモノ

Tokyo Idolsのあらすじ部分にある言葉。

束の間のリアルな交流は、お金を媒介にしているように見える

これも、凄い難しいなと思っていて。

 

消費者としてのオタクって、結局お金を出すしかないんですよ。だって放送権も持ってないし、劇場を押さえて制作する能力もない。

愛があるなら、ただただお金を払って、芸を行うために必要な物や場所を支えていくしかない。

Yes,LOVE=MONEY!!!!

 

でも最近、個人のツイートでマジ超無理案件~~って思ったのが二つほどあって。

1つはRENTの考察について。あの作品を「お金を持っている消費者」と「お金のない創作者」の対立構造として捉える考察。

もう1つは普段は出待ちをOKにしている方への「金を払わずに行われる出待ちは搾取だ。全面的に禁止しろ」的な意見。

 

ザックリと無理理由を言うと…そんなにお金が偉いんか?!!っていう感じなんですけど。

これはちゃんと伝えるの、難しいな。

 

お金は必要だし、実際に、こちらが出せるのはお金と、あと自分自身の時間と精神的余裕位なんですよね。以前出た浪費本もそうですけど、自分の愛する物に対してお金をきちんと支払っていく人は素晴らしいと思う。尊敬できる。

第8話の「おひねりのきもち」、わかりみが最高でした…。追いブロマイドとかわかる…買う予定ではなかったグッズも最終的に手元に来ています(RENT2017グッズ大体揃いました)。

感謝と愛を伝えるために、手っ取り早くお金を使ってしまう。お金があれば!その次に繋がるかも知れないし!!そうしたら、好きなクリエーターさんも活躍の場が増える&私もその活躍を見られる、でWin=Winです。

お金を払うという事は、実際にその事物(芝居であったり、ブロマイドであったり)を受け取りましたよっていう証でもあるわけで。お金と物を引き換えてるわけですからね。チケットは受領証です。

まあ個人的に茶の間自体は潜在的購買層だと思っているので、気が向いたらお金を払って舞台とかイベントに来てね~楽しいよ~~ってスタンスなんですけれど。やっぱり、声が大きかったり、自分が受け取っても居ないものに対して要求するような言い様は苦手ですね。まず初めに!コンシューマー・カスタマーとして、プロダクターの向かいに立ってから話して!!お金を払っていないなら、要望を出せる土俵にも立っていないよ!!となってしまいます。

 

でも払ったら偉いか、お大臣かというと疑問で。

お金を媒介とした交流が行われていく中で、愛<<<お金、みたいに逆転してしまう時がままある。

お金払ってれば良いんでしょ。みたいな。お金を沢山払っているから私は愛が深い、みたいな。課金芸人発生みたいな。そういう風にとらえ始めてしまったときに、果たして本当にそこに愛はあるのだろうか?

 

漫画とかの悪いキャラで「俺が信じられるのは金だけだ…」ってのが稀にいるんですけど、「こいつすげ~人の事信じてるな?!」ってなるんですよ。Goldとかならまだしも、流通貨幣だと余計に。

通貨って、まず初めに国家とかが価値を保証してないと成り立たないんですよね。この額面で、これだけの価値がありますって保証して貰う。それがあって初めて、モノやサービスと交換できる。

だから、価値があるのはお金自体じゃないんですよ。モノやサービス、俳優やアイドルで言えばその芸・技や本人達に価値があって、それに対価を払うのに使えるだけ。対価として使うからこそ、お金の価値が肯定される。

お金は大切だし、それがあるから次の活動につなげていける。資本主義万歳です。お金さえあれば割と何でも出来る便利社会。

でも根本的に価値があるのは、自分自身の愛であり、芸に価値を見いだす視線であり、その芸と、芸を行う人そのものであって、お金はあくまでも流通貨幣でしかないっていうのは重要じゃないかなと。

 

何かを創る行為って、創り手自身がしたいと願うから行う…内発的動機付けに基づく行為であることが割と多い。もちろん外発的な動機=報酬に支えられるものも多いんですけれど。

それでも基本的に、創り始めるか否かは、本人の意志によって決定されるんですよ。周りがどれだけ強制しようと、報酬を与えようと、やり始めるかどうかは当人が決める。

それに対して、お金払ったんだからどーのこーのお金持ってるのが偉いのなんの、自分に従え~!って言うのって、滅茶苦茶嫌だなと思うんですね。

 

何でRENTで、アレクシーに「魂売ってちょうだい」と言われたときに、マークが自分の首を絞めたのか。最後に「ボクは撮りたい映画を撮る」って言ったのか。彼は自発性、自立性を保ちたかったし、お金は欲しいけどそれで自分を売り渡す気はなかったんじゃないかな?という。彼にとって、創る事は多分愛する事と同じなので。愛をお金で売り渡せないって言えば、何となく理解しやすいかな。

とにかく。お金で全てを縛るのではなくて、当人の自立性、それ自身の意志、価値を認めていきたいなっという話。

 

あとね、俳優さんとかアイドルって、基本的に身体に依存した表現を行うために、表現と実際の生活とを切り離しがたい部分があるじゃないですか。舞台上に立っている身体も、飼い犬の散歩中に自販機で買った珈琲を飲んでいる身体も同じ身体なので。同様に、精神・自我も、オンとオフでスタンスが違うとしても、1つの地続きの魂。

それを、これは売り物、これは売らない物と切り分けるのってものすごく難しいし、本人以外から行えるものではないのかなとも思う。本人ですら難しいだろうし。

 

出待ちは搾取。これは一部では事実だと思います。現場の種類によって価値観も変わるけれど、まあお金を払わずに接触しているって言う部分は同じだという雑なくくりで失礼します。若俳Twitter更新とかも、サビ残wってよく言われますし。

私たちはどこまで彼らの人生をむさぼって良いのだろうと悩んでしまう事もよくある。

そこで、ここまで話してきた問いがまた改めて立ち上がってくる。

じゃあ、お金を払えばなんでもありなのか?

商行為として成り立つ事=お金を払っている事だけを肯定したときに、本人の自由意志はどうなるのか?

交流のために自分の意志で、終演後に顔を合わせる場を設けている人に対してまで、全て「お金を払っていないんだからダメだ」と言っちゃうのって、どうなんだろうなと。

お金払ってアイドルさせてるんだからここまでやっていいのか?とか。

ここら辺は外の人間がうかつに語っていいことじゃないんですけどね…。

当人の意思次第になってくるし、その意志自体が本当に当人の物なのかもわからないし。あと「**くんが嫌がってないんだから出待ちしたって良いじゃん」とかいう弁解にも繋がっちゃうのがまた危うくもややこしく。お金を払わないのは言語道断だけど、払ったからといって神様面していいわけじゃない。

うーん。言いたい事が難しい。

 

結局は、

推しをひとりの人間として尊重したい

・お金はあくまでも通貨であり、価値があるのはモノ(物、者)や想いであるという考えを持っていたい

みたいな感じかな…。

 

捕食者は誰だ。

三池監督のインタビューの中での言葉に以下の物があって。

こちらとしても、アイドルを弱々しい被害者のようには写したくなかった。りおさんだったら、そうはならないだろうという安心感がありました。

先に言ったように、たとえば男性優位的な社会における搾取対象であったり、お金で買われる物としてのアイドル像って言うのはある。

けれど、りおちゃん自身はそのプラットフォームをしっかりと踏みしめた上で、自立性をきちんと保っているし、監督のカメラはそれを冷静に捉えている。

りおちゃんは、自分の魅力でお金や時間・感心・心・協力をぐいぐい引っ張って、自分のもの……自分の生きるための糧にしてるんですよね。一方的に搾取されていると言いきる事は難しい。

 

私の好きな作品に「THE ALUCARD SHOW」っていうのがあって。(唐突)

ザックリとオチ(自分の中の解釈・妄想混じり)まで説明すると、

突如現れ、人々の心を奪ったダンスボーカルグループALUCARD…彼らは実は神の率いる吸血鬼の群であった。彼らは自らを愛する者たちの想いと血を糧にしていたのだ。だが彼らは現れたときと同じように、突如姿を消してしまう。人々の胸に、渇望を残して…。

みたいな。

ブラド=神様は独自解釈なんですけど、でも他のメンバーのように血を飲まない/同様に日の光で死なない/孤高/マリアから産まれ、対になる存在…なんで神様って考えて良いと思いません?! とりあえずその前提で話進めますよ!!!!(業火ブラド担ALUCARDNIA)

 

話自体は…なんか……レディコミとかちょいエロ有り乙女ゲーで見た気がするなとか思うんですよね…。「オレ様アイドルは吸血鬼?! でも彼に言われると…血も愛も捧げちゃう…!」みたいな感じで。DVD(売り切れ)の公式のあらすじもなんか陳腐に見えてしまう…。あとこっちのあらすじだと完全にアルカードはヴァンパイアって書いてあるわ。いいえ、ブラドさまは神様です(私の中で)

自分的に好きなポイントは、実際に観劇した人がファンとなり、存在を渇望し、もう一度劇場に行くことで話が完成するという、心情的な参加型舞台なのとか、ダンスや曲のかっこよさ。あと自分自身に神様=推しがいると、ブラドやアルカード達にその姿や羨望・渇望を投影しちゃう構造なところ。

 

なんでアルカードの話をしたか。

アルカード自体はアイドル(偶像)・スターであるんですけれど、作中では基本的には捕食者として描かれているんですよね。人々を魅了し、愛させ、その心や血、命を奪う。受動的にではなく、能動的に対象の心身を奪うんですよ。アルカードは。

それは、アルカードが男性(あるいはそれに類する物)であり、ファンのほとんどが女性だから、っていう部分もあるとは思います。どこまでいっても女性は搾取される側なのかもしれない。…いや、ホント、アイドル像の話の中に、男性アイドルを混ぜるとややこしくなるんですけどね!! あれはあれで別の世界観・価値観の中に存在しているので…。

 

ただ、とりあえず、アイドルやスターしてのアイコン、その存在がひたすらに搾取されている存在ではなくて、消費者から与えられる諸々を受けて、能動的・自立的に存在するものであるという見方も出来るんじゃないかな?と言いたいだけです。

今でもアルカードの帰りを渇望している。

 

主体性の再獲得としてのヲタ活動

三宅監督のインタビューの中で、以下のようなQ&Aがあって。

Q:ファンの方たちがなぜ必死でアイドルを応援しているのか、その答えは見つかりましたか?

A:(中略)安定した職業を得られずに不安定な状況が続いた人が多かったことでしょう。そんな世代の男性たちは、アイドルを応援することでステップアップしていく夢を一緒に見たり、一家を支える強い男性のような気持ちになれるのかも知れません。また、アイドルの女の子は、少し古風でやわらかく、包み込んでくれるような感じの子が多いので、そこに安らぎを求めているのかなと思っています

 

こちらを読んで、先日読んだ記事を思い出しました。

痴漢とドルヲタを一緒にするなと言われそうだけど。笑

 

特に、なるほどなーと思ったのは、

痴漢という性犯罪の本質は、"支配欲"です。

性欲を発散するだけなら方法はいくらでもあるのに、性暴力を介してそれを遂げようとするのは、「相手を自分の思い通りにしたい」という支配欲がベースになっているから。そして、彼らにとって痴漢行為はストレスへのコーピング(対処行動)なんです。だからこそ、簡単にやめられるものではない。

と言う部分で。

あともう一つは、

「性を介して女性を支配する」ことが、男性の支配欲求や征服欲を満たすための一種の行動である、という社会の価値観が加害者の心理に影響していると考えられています。

って所。

 

少しフェミニズムの話にずれるけど。

エマ・ワトソンのスピーチの中にも似たようなところがあって。

男性がジェンダー・ステレオタイプに囚われていることについては、あまり話されることがありません。しかし、男性は確実に「男性とはこうであるべきだ」というステレオタイプに囚われています。彼らがそこから自由になれば、自然と女性も性のステレオタイプから自由になることが出来るのです。


男性が「男とは攻撃的・アグレッシブであるべきだ」という考え方から自由になれば、女性は比例して男性に従う必要性を感じなくなるでしょう。男性が、「男とはリードし、物事をコントロールするべきだ」という考え方から自由になれば、女性は比例して誰かにリードしてもらう、物事をコントロールしてもらう必要性を感じなくなるでしょう。

 

先の痴漢についての話の中では“支配欲”っていう言葉を使ってしまってるので、逆に「男性とは攻撃的・アグレッシブであるべきだ」っていうのを肯定してしまっているのがややこしいんですが。

このあたりのを見ていて感じたのは、引用文の元にあるジェンダー論とは若干ズレますが、今「自己の主体性を再獲得しようとしている」人がそれなりにいるのかなって事でした。

 

今現在の仕事とか生活って、意外に主体性を持って出来ない感じがあって。もちろん「自分で考えて仕事するのが出来る奴」みたいなのはあるんですけど、それ自体も「会社から望まれている社会人像」じゃないですか。

どこ行っても何してても、誰かに監視されてるし、なんか言われてしまう。あと何をやろうとしても、先行する情報が多くて結末がみえてたりする。

仕事してお金が出ても、自分のためにどう使うか?っていう段で躓く事も多い。消費が冷え込んでます~ってよく言われますし、少子化だの、晩婚化だの言われますけど。大きい買い物をする機会(するためのお金も)あんまりないし、車なくても生きていけるし、家を買うにしても、いつか老いたときの事を考えると決めかねるし。結婚がゴールでもないし、そこからずっとお金が掛かるし、子どもを産んでまともに育てられる環境にあるかどうかもわからない。

なんかもう、何やっても詰んでんじゃん \(^o^)/ みたいな人生。

 

で、「主体性の再獲得」に戻って。

痴漢行為は、女性を支配するという形で、相対的に主体性を取り戻そうとしているように思います。だからこそ、相手をいたぶるけど、相手の感情については全く想像していない。対象としての女性がいて、それに対して主導的に行動出来れば充分だから、本人がどう怖がって、傷ついているかには無関心なのかなと。

アイドルを応援するのって、そういう意味でストレスへのコーピングのための痴漢と同じで。(というと語弊がめっちゃあるけど)

性欲の為にやる~って人ももちろんいるだろうけど、「自分自身が価値を見いだした人に、自分自身の意志を持って時間や心やお金を費やす」っていうのは、それ自体が自分自身の主体性の再獲得=自己効力感の獲得になって、ストレスを軽減させるのかなという。

学習性無力感の状態(例:給料上がらん現実辛い)から、認知行動療法で達成経験を積み(例:推しがいるぜ、生誕成功したぜ)、主体性の再獲得=自己効力感(例:俺、頑張ればいけんじゃん)を得て、ストレスを軽減させるという。現実から乖離した(あるいは地続きだが離れた)場所だからこそ、自分の好きな事が出来るし、自分の気持ちを立て直せる。

 

ヲタ活動って、どこまで行ってもフォロワー状態で、自分の夢に向かって走って行くアイドルを追いかけて応援する事しか出来ないし、口上もヲタ芸も基本的には固定で、自由意志があるようには見えないけれど。

ただ一つ「この人を推そう」って気持ちは自分だけのモノだし、その想いに則って頑張る事は、自分らしさを取り戻せる部分なんじゃないかな。

ある意味この曲の怖さと力強さによく似ている。

選べる事が大事なんだ 人に任せるな

(そう言って彼女は、他の少女達と同じ衣装を身にまとった。)

 

余談として。

認知行動療法的な効果なだけに、別にストレスの原因(会社がブラックとか)が解消されるわけではないので、会社に行けばまたストレスは受けるし。

男性が女性アイドルを応援する事を選ぶのは、もしかするとそれもまだ「男性かくありき」っていう価値観にとらわれていることかも知れない。

あと自己効力感を追い求めすぎて、現場に住んでる状態なのも、何処かしらでつじつまが合わなくなる(たとえばアイドルが引退したら? お金がなくなったら…?)し、結局そこが現実世界になってしまって、別の同担とか事務所との軋轢で死にそうになるので、それはまたそれでしんどいんだよなあと言うのはあるんですけどね。

それは……それ!(放り投げる)

 

きみはボクの夢の船

応援対象に夢を託すと言う事。

夏に議員が炎上してましたね!!

最後に答えているサッカー選手の石川氏の、夢や人生を託して応援している事自体は否定しない姿勢が好きです。

 

アイドルでも、若手俳優でも、やっぱり夢を託している部分ってのは事実あって。

別に自分が帝劇に立ちたいけど無理そうだから頼んだぜとか、そういう直接的な夢の託し方ではないんですけど。笑

大好きで、精一杯応援していた人が、何かを成し遂げる姿を見て…それこそ、上の方で言っていた自己効力感であったり、人生という物語の山場を見た感動だったりを覚えるのってあるわけで。

 

好きな漫画のタイトルが全くそうで、そこも含めて好きだったりします。

推しが武道館いってくれたら死ぬ! 死ぬんだよ!! そう死ぬ!!

私は死ななかったけど!!!!!(2015年のAAAで推しが武道館に行った)(舞台袖ではしゃいでる姿が見えて可愛すぎて死ぬかと思ったけど死ななかった)

推しが武道館に到達しただけで死ぬあたりすごいわかりみがすぎる。しかもその「死ぬ」が歓喜なのか、到達点を見たという満足感なのか、同担多くなりすぎて無理!!の他界なのか今のところわからないところもいい。本編も女の子が可愛くて可愛いし、でもオタクは残念な感じが上手く出ていて好きです。

 

自分の人生生きろよって言われると、そりゃそうかもしれないけど…とはなりますけど。

別にいーじゃんなーとも思う。

自分の人生はちゃんと生きている(物理的に/事実死んではない)上で、大好きなあの子が日々努力している姿がまぶしくて涙を禁じ得ないのは、両立できないことじゃないしさ。

 

ラブ・ハラスメント ~つがいにならなきゃダメですか??~

作中の批評家の言い方が「同年代の異性に目を向けず、恋愛関係も築けない落伍者」的なニュアンスなのが凄いモヤモヤする~!!という話。

 

先の話に若干もどって。

作品中で「コイツ嫌いだー!!」ってなった批評家の1人が言っていた言葉。

「日本の少子化対策で考えたら、アイドルは速攻禁止すべき」

……ゲイは異性と恋をしろみたいな雑論あざっっす!!!!

 

少子化です~対策しろ~ってのも。なんか、周りにやいやい言われて産みたくなくないですか?

結婚するまではしないの?と問われ、したらしたで子どもは??と言われます。妊娠したら自己都合でワガママ言う奴とつまはじきにされます。産んだ後のフォローもあまり期待できません。でも共働きじゃないとまともに生きても行けません。産んだ子も全部労働力になります、年金機構を支えさせます、でも大学まで行っても就職確定できません、好きな事出来るかもわかりません、世の中明るい見通しはないです。

前にご飯屋さんで隣に座ったおばさんが、「このまま人口が減少していくと、日本は移民に占拠されて、日本人は居住区だけに住む事になる」「だから若い人には子どもを産んで貰わないと」って言ってて。お前の都合のために産むのなんてまっぴらゴメンだー!!!!!ってなりましたね。産む予定もないけど。

本当に、今自分が生活本体で幸せを感じられる状態じゃないと、産みづらいですよ。

じゃあ世のため人のために産め?

そんな事より、自分の子を幸せにさせてあげたいよ。

それが確実だって思えないなら産みたくないし、産めない。産めないから、別にセックスする必要もない。恋人がいる必要もないし、結婚する意味もない。結婚しないなら、とりあえずお金を稼いだ分、自分が死ぬまでの間、せめて自分だけでも幸せにしたい。

 

でも世の中は、つがいになる事を求めてくる。

アメリカの話なのですが、なるほどなあと。

さらに踏み込んだ分析をすれば、「社会で大成功することと素晴らしい結婚とでは、どちらがより大切なのか?
と問えば、アメリカ社会は間違いなく、素晴らしい結婚に軍配を上げます。それこそが、「アメリカ社会=個人主義社会=夫婦主義社会」の根底をなす考え方と言える、と国際弁護士ユアサは確信しています。

人と一対一かつ性愛を交えた信頼関係を結べることが、個人にとって重要な事。みたいな。

 

またRENTの話になるんですけど。

マークは、他のメンバーがカップルでいる中、ただ1人独り身で寂しい奴、っていう見方が基本なんですけれど、このアメリカ的な個人=夫婦主義的な世界観からの脱却という視点から改めて捉え直すと面白いなと思っていて。

マークはカメラマンで、ディレクター。多分、ドキュメンタリー系のクリエイターです。彼女はいたけど振られました。だから別に人が嫌いではないし、行為を楽しむ感覚はある。

でも彼の行動を見ていると、興味があるものには基本的にカメラを向けるんですね。会話が発生すると、ちゃんとそれを行う為にカメラを降ろすし、対象への敬意はあるんですけど。ロジャーから紹介されたミミを「すごい」と賞賛するけれど、その前に彼女を街中で見かけた時に真っ先にしたのは、声をかけたりする事ではなく、カメラを向ける事で。La vie bohemeでも「性欲持ってる人間だったら、目の前の壁もぶち壊せる」と歌いつつ、カメラを自分の性器の隠喩にしてぶっ放し、「戦争の反対はCreation!」と叫ぶ。

彼自身迷っていたり、孤独を実感する部分があるけれど。彼の世界との関わり方は、割とカメラと、それによる創作を介していて。創り出す力を感じながら「1人じゃない」と歌う。

RENTという作品自体が、マークが作中で制作していたドキュメンタリーである、と、作中の諸々をつなぎ合わせて考える事が出来るんですけど。世界中でRENTが愛され、レント・ヘッズという熱狂的なファンを生み出している事を考えると、彼の創る力は確かに、彼と彼の物語を1人にはしなかったわけで。

つがいの相手がいなくちゃいけない訳じゃない。マークは創る事で、世界中と繋がっていける。そう考える事が出来るな、と思うわけです。

(そしてその創る事は、性愛であったり憐憫であったり、喪失の痛みであったり、クリエーターへの敬意であったりがいっぱい混ざっている。)

 

それに、個人は個人じゃん?って個人的には思うんですよね。セックスして繋がったところで、お互い皮1枚は絶対に残るわけで。

愛があれば大丈夫、子どもが居れば繋がっていける、みたいなこと言われても、他人は他人で。別に他者との共存を否定したり、共感がないというわけではなくて、個々人として互いに尊重すると、私は私、あなたはあなた、となる。そして個人の幸福について考えたとき、必ずしも他者がつがいとして必要ではないのではないか?という結論に至ってしまう。

不必要だと言っているわけではないんですよ。何かを創り出したり愛したりする上では、他者はいたほうがいい場合も多い。でもつがいじゃなくて良くない??

 

なんでこの項目で、カップルとか恋人とか結婚とか言わずに、つがいって言ってるのかというと、その「必ず対になり、子をなさねばならない」という概念自体が原始的で、人間の自主性や今の個人主義にあわないなーと思っているからです。実のところ「必ず対になり…」という概念には、愛も人格も必要ないでしょう? そうあらねばならないからそれを達成するという時に、自由意志は必要とされないわけで。それって変だし、嫌だなって。

 

それでもまあ、私自身は、推しに性愛を感じないかと問われれば、全く感じないわけではないですと言うし(ガチ恋なので)、結婚に興味はあるし(人生経験として)、ていうか推しと結婚したい(大の字)

 

だけど、自分の推し推してる人全員がガチ恋じゃないんですよ!!!!

生物は全てつがいにならねばならぬっていうルールに則って推してるわけではないので!! 雌と雄がそろったらつがい!みたいな安直思考ではない。

性別は前提としてあっても、芸術表現の担い手としての存在を好きになる事だってある。顔が好きでもキスがしたいわけじゃない人もいる!モナリザにキスしないみたいにさ!!という。

「俳優」と「ファン」として両想いでありたい。

別に男女関係になろうとか全く思ってないし(なれるわけもない)、恋愛感情とはまた別の感情として両想いでありたい。

まさにこれだなと!!首がもげるほど頷きました。

 

だから雄と雌はつがいになるべきって枠組みから見ようとする時点で、既に入り口を間違えていると思うんですよね。

真実の愛や、自己実現の正解が必ずつがいのなかにあるという考え方はどうなんだろうな?という所で、次章(?)に続く。

 

Tokyo Idolsとぼくの神様

総括に入ります。

性愛を向けられる対象。搾取される少女。技術を磨き創造し続けるパフォーマー。自主独立を保つ存在。それら全てがアイドル。

 

私自身の話。

私はガチ恋です。推しの事が大好きです。推しの好きなところを並べてみたりしてます。でも推しが芝居をしていなかったら好きにならなかっただろうし、もしも(本当にもしものもしも)「芝居を捨てて君と生きるよ!」とか言われたらキレ散らかす自信があります。「才能もやる気もあるんだから芝居しろよ!!!!!」と。何かを創っている推しが好きです。ファンには真面目そうな表情メインで見せていたけど、実際ははしゃぎだすと滅茶苦茶煩いという面も最近出してきて(バイネッケ家最高にカワイイです。ありがとうありがとう)好きです。マネジメントされていた面も、さと兄といるときにチラッと出る素も好きです。RENTのエロいシーンガン見してごめんなさい。でもあなたのマークだからこそ、私はマークを好きになったし、RENTそのものが大好きになりました。他の物語達に生きていた子達も、全て、全て、愛してます。

私のこの気持ちを、完全に性愛と創作者への敬意とで、わけることは出来ません。

愛しているからお金を払ってチケットを買います。表現されたものを出来る限り受け止めます。それは常に商行為的でありながら、芸術への愛の表現の一つです。お金で繋がる事は汚いでしょうか? じゃあクリエーターは霞を喰ってろってか? 私は私の好きな人が思う存分思うままに生きていけるように、せめてその足がかりになるお金程度は払っていきたい。でもこの世界がお金本位で、お金を得るためにその好きな人の自由が縛られているというなら? いったいどう愛せばいいのだろう。そばにいられるわけでもないのに? どうしてこんなお仕事を?と迷い泣きながら払う事もなかったわけではないけれど、それでも彼が、幸せに望むまま生きられますようにと願っています。出来れば自分の好みの作品に出てくれたら嬉しいなと思いつつ。私が買っているのは、真っ当に生きられない自分を許して貰うためのの免罪符ではなく、自分と大好きな人が幸せになるための祈りです。

商行為と創造物への愛も混濁していて、切り離す事が難しい。

ずっと昔、彼は私の神様でした。尊敬していたし、彼が創る物は私の視界を切り開いていった。でも今はあまり神様とは言えません。好きだからです。いっそ駆込み訴えかJCSのユダように一度売り払ってしまえれば、ほんの一秒でも気持ちが軽くなるでしょうに。それは一生出来ません。だって自分の手元に無いから。笑

遠くて、触れられるのは一瞬で、言葉を交わすのも数秒で、それでも声はずっと聞いていられるし、姿を見つめていることもいっぱい出来る。この端から見ればいびつで、男女の交流としては奇妙な中でも、純然たる愛はある。と信じている。

 

“Tokyo Idols”

この作品の中では、わかりやすい決着や結末や結論はないように思います。りおちゃんはまだ頑張ってアイドルを続けているし、応援する人が何かのゴールにたどり着いたかどうかもわからない。幼いアイドル達がこれからどう成長するのかもわからない。価値観は多様で、しかもソトよりもウチの方が、余程その価値観の中で混乱し揺れ動いている。この愛の本質は何だ? 心を切り分けて解体した先にどんな暗いモノが横たわっているのかわからない。それは自分の死体かもしれない。

ただその混乱し、混沌として、でも熱を放ち続けるアイドルの現場を冷静に録りながら、外部の評論家の言葉で少しずつ切り込んで、理解の足がかりを打ち込んでくれているのは、とても良いなと思いました。

Q.最終的に「Tokyo Idols」を通して、どのようなことを伝えたいですか?

A.「日本だとNetflixで公開されるのですが、何らかの形で話し合いをする機会を提供できればと思います。同年代の女性にアイドルに関する映画を作っていることを話すと、アイドルについて思うことはあっても『男の人ってそうだよね』というあきらめ感が漂う。でも、仕方がないと思っても何も変わらない。ですから『Tokyo Idols』を通して議論するきっかけになったらいいですね」。

 

そんなわけで。Tokyo Idolsを見て、私の居る場所、見える物と、推しへの気持ちを交えながら、改めてアイドルや今の女性・男性の立ち位置を考えてみました。

考えてみてわかったのは、「少しも割り切れないな…」って事でした。笑 ガチ恋じゃなかったり、ただの表現者として好きだったら、書くのも楽だったんですけど、結構、色々、混ざってるので、アレ。

ムズカシイネ

まあ、そんな感じです。色々と書いちゃったから、めっちゃ長くなっちゃった(17000字位ある)

ネトフリ1ヶ月無料だし、有名な「ネオヨキオ」(ヤバイアニメ)も見れるので、興味があったら是非見て下さい。うっかり、りおちゃんが好きになるので…スゲーもんりおちゃん……格好いいんだよなあ。

*1:スレ自体は色んな話や見解が錯綜していて苦手なので読まない。管理人さんがレスを取捨選択して物語の流れを作ってくれると、ようやく読める