Tida-Tiger

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怪物に内在する『アンリ』についての考察

こちらは、ミュージカル「フランケンシュタイン」についての、ごく個人による考察、もとい妄想です。ネタバレなどを多分に含みますので、その点、ご了承下さい。

 

 

と言うことで。

怪物に内在する『アンリ』について、適当に書きたいと思います。

これが絶対の答え、と言うわけではありません。というか可能性自体、ここで3つ提示しますし。私自身はこれが好み!と言うのはありますが、演者の組み合わせで、受ける印象がかなり変わるので、やっぱり絶対ではありません。

 

前提

  • 怪物は、アンリの首・誰かの胴と四肢(脚も縫合痕あり。別人のパーツの可能性)で構成される。
  • 起き上がった時には、明確な知能は認められなかった。
  • 闘技場で様々な刺激を受ける中で、言語(読み、喋り)を扱う。またそれは新たに学習されたものではない可能性がある(カトリーヌの「言葉、わかる?」という問いに対し、「わかる」と答える。以降も学習の描写はない。文字も教わらずに読めた)
  • ビクターとの再会前に、アンリの記憶を再獲得して(思い出して)いる。

 

というのを一応の前提として、いろんな解釈を考えてみる。

 

解釈1:怪物に内在する『アンリの魂』

「偉大なる生命創造の歴史が始まる」にて、ビクターは「愛しき魂よ、地獄から戻り肉体に宿れ」というようなことを歌っています。そして、怪物は目覚める……アンリの魂を得て。

突然、漫画の話に移りますが。ゾンビ屋れい子という漫画がありまして。

 

 

その主人公であるれい子さん、実はシリーズの割とはじめの方で、首だけの存在になります。首に魂だけ残っている存在。で、友人だった女の子で、首を奪われてしまった子の身体と自分の首をつないで、れい子として完全復活する。ボディのパーセンテージから言ったら、友人女子の方が多いけど、その存在はれい子。何故なられい子の魂がそこにあるから。

れい子と同様に、アンリもまた、魂を怪物の内に宿らせた。だから、怪物=アンリ自身、と考える事も出来る。

 

解釈2:怪物に内在する『アンリの脳』 〜自我プログラム編〜

こちらもアンリ=怪物考察。

アンリの自我という、脳に存在する彼固有の行動プログラムが、怪物という身体を支配しているのではという考え方です。

怪物は、アンリの首、つまり脳を持っています。目覚めた当初は接続が悪く、暴走気味になりますが、闘技場で様々な刺激を受ける内に、脳が身体の支配権を改めて得て、アンリとして動けるようになった。そして、ビクターを友人と語るようにもなった。

 

解釈3:怪物に内在する『アンリの脳』 〜記憶メモリー編〜

こちらは怪物は怪物だよ編。

怪物は確かにアンリの記憶は持っているが、それは一つのメモリーでしかない。という考え方。

怪物は目覚めてからの刺激、経験を受けて、自我を段階的に形成しており、アンリとは別の人格として成長している。だからこそ創造主であるビクターへ憎悪を向けるようになった。

 

 

……という、大まか3パターン。細かくいくと多分もっと分かれるんじゃないかな。

 

余談だけど割と重要な話

フランケンシュタインは空想科学的な方向性の話ですが、有神論的かつ唯物論的で、魂や神の存在は意外と否定していません。でも充電すれば生き返る的な事も言う。蘇生実験が脳メインだったのも多分意味がある。
ビクターもビクターで、「死体を兵士として活用」「生命創造」と、生命体の新規作成的なことを言いつつ、その根本の行動動機には、母やアンリやエレンを生き返らせようという生命体の蘇生、再生への願いがあります。つまり、あの人自身、怪物を作ってるのか、アンリを生き返らせてるのか、そもそもハッキリしていない気がする。
また、作品全体が全てを語り切らず、余韻を残す感じになっているので…

なんかこう、好きなの選んで!という感じです。

ギュン!って来たらソレが正解だと思います。

 

ちなみに私は、2と3の混合で、怪物としての人格が強めだけど、アンリの感情に引きずられる面もあり、でもビクターにアンリと呼ばれると、俺自身を見てくれ!と思ってしまうみたいな辺りが(萌えるので)好きです。ややこしくしたい。葛藤オイシイ。あとジャックは(劇中で一切言われてないけど)ビクターと似てる顔設定として考えています。妄想ですが。

 

そんな感じ。